2014年10月29日水曜日

『ヤノマミ』

『ヤノマミ』 国分拓(2010)NHK出版


2011年 大宅壮一ノンフィクション賞。
現代のノンフィクションの一つとして興味を持って手に取った。
「文明」側の人間がいくら畏れ気を付けても、彼らがそこにいるということはすでにヤノマミの「文明」化と背中合わせ。ヤノマミがそのままで生き続けてほしいと願うのみ。しかし、私がいまヤノマミを知ることができたのは、「文明」の浸潤が進んだからこそでもある。


『どこに行くのかと聞くと、彼らは〈ハナナリゥ〉だと言った。大きな川のようだった。どんな川なのかと重ねて聞くと、男たちはその問いに直接は答えず、右手の人差し指で左手の五指を一本一本指しながら、魚の名前をいくつも挙げ始めた。ナマズ、ウナギ、ピラニア、ピラルクー……。男たちの言い方は、日本人が好きな寿司ネタを挙げる時によく似ていた。』 p.73



『「天は精霊の家だ。天はたくさんの精霊の家が重なってできている。
 だから、精霊の家を探すには、一つ一つの家をどこまでも登っていかねばならない。
 ジャガーの精霊はずっと上にいるし、月の精霊は月にいるし、星の精霊は星にいる。
 ずっとずっと遠いところに住んでいる。
 病を治すには、どんなに遠くても登っていかねばならない」』 p.167


『「地上の死は死ではない。
  私たちも死ねば精霊となり、天で生きる。
  だが、精霊にも寿命がある。
  男は最後に蟻や蠅となって地上に戻る。
  女は最後にノミやダニになり地上に戻る。
  地上で生き、天で精霊として生き、最後に虫となって消える。
  それが、定めなのだ。」

 こう言葉に記すと、シャボリ・バタの言う「定め」には諦観のようなものが含まれているように感じるかもしれない。だが、深い森の中でその言葉を聞いた時、彼は「当たり前のこと」をただ「当たり前」に語っているのだと思った。
 そこには。揺らぐことのない強靭な「何か」があった。』 p.168


『ヤノマミにとって、生まれたばかりの子どもは人間ではなく精霊なのだという。精霊として産まれてきた子どもは。母親に抱きあげられることによって初めて人間となる。だから、母親は決めねばならない。精霊として産まれた子どもを人間として迎え入れるのか、それとも、精霊のまま天に返すのか。
 その時、母親はただじっと子どもを見つめているだけだった。森の中で地面に転がっている我が子をじっと見つめているだけだった。
 僕たちにとって、その時間はとてつもなく長い時間のように感じられた。』 p.178

『そこで気になった。彼らはずっとここにいたのか、それとも、何か所かシャボニを変えたのか……。
 (中略)
 シャボリ・バタは「何度となく森を歩いた」と言った。歩いては家を作り、また歩いては別の家を作った。歩いては女と出会い、また歩いては別の女と出会った。そして、仲間を増やしたり減らしたりしながら歩き続けた、と言った。
 
 それは、モンゴロイドの流転にも似ていた。今から、二万五千~二万二千年前(諸説あり)、モンゴロイドの一派はアジアから凍てついたベーリング海を越え、アメリカ大陸へと渡っていった。そして、さらに歩き続け、一万年をかけて南アメリカの最南端まで到達した。ヤノマミはその道中で枝分かれした無数のグループの中の一つだ。アジアから南北アメリカを歩き続けたモンゴロイドと、森を歩き続けたシャボリ・バタ……。』 p.234


『ワトリキでは、「文明」への依存が進む一方で、「文明」への憎悪も深まっている。依存と憎悪。依存は、時に依存する側の人間を卑屈にさせるだろうし、それが憎悪に変わっていくことも想像に難くない。今後、その「依存」と「憎悪」は、ともに大きくなることはあっても、なくなることはないように思えた。
 そんなことを考えていると、若者の一人が、また政府の悪口を言った。僕に同意を求めているような言い方だった。だが、僕は、彼らの感情に寄り添うことも、同情することも、励ますこともできず、やはり、力なく笑うことしかできなかった。』 p.303