2016年2月28日日曜日

江戸川沿いの「浅間焼け」




 帝釈天と寅さんで有名な柴又の、南のはずれにある宝生院の墓地の入り口近く、案内板とともに、細くて高い供養碑が立っています。


  「浅間山噴火川流溺死者供養碑」









右側面には「天明三年癸卯歳七月十八日」とあるので、大爆発の後、十日ほどで作られたのでしょうか。おそらく死体の回収がひと段落し、供養が済んだ段階で作られたものなのでしょう。
 今でも非常にきれいにされていて、つい最近のお線香の跡もありました。





静かな江戸川


影向の松



 さらに、江戸川沿いを南下し、京成線とJRの線路をくぐった先、「影向の松」が境内の中心に広く枝を広げた善養寺にも、天明三年の噴火によって流れ着いた死者たちへの供養碑があります。


  「天明三年浅間山噴火横死者供養碑」




 善養寺の西門の外にあり、住宅地のほうからお寺やってくる人々を見守るように立っています。今でも、新しいきれいな花が供えられていました。

碑文全文
  前癸卯信州浅間山水火湧出流緇素洪河日往
  転増爛月来更自黛白蠕孔裏蠢晋蝿上飛
  欲尋昔日愛一悲一可愧今歳寛政七乙卯七月
  十三回仏陀妙慧慈雲霑法雨無上菩提沌浄也




 果たして、浅間山から遠く離れた地域に住む人々にこのような供養碑を建立させるに至らせた、天明三年七月の江戸川の状況とはどのようなものだったのでしょうか。


『江戸川区史 第三巻』によれば、

「又山津波のもたらした被害は流失した村七十余を数え、この為に死傷者は無数に及び、その死体が利根川及び江戸川に満ち溢れ、殊に小岩付近の中州にはうず高く積って通船に差支えた程であったといわれている。/そして後日に至りこの惨状をまのあたり見た地元の人たちが、施餓鬼を行って手厚く弔い、その洲を毘沙門洲と名付けた。」pp.968

 死体が中州にひっかかるように流れ着いており、その洲に冥福を祈って名前を付けるほどにその死体の数は多かったのです。

 また、その流れ着いた死体も当然、きれいなままではなかったようです。できるだけ当時の状況を想定できるように、孫引きになってしまいますが、高崎哲郎さんが引用した『後見草』(杉田玄白による記録)をそのまま引用してみます。


「権現堂川、中利根川に、家屋の壊れた棟、梁などの材木類、それに戸、障子、家具類、また生木の大木のずたずたに折れて、皮のむけたものなどが流れ下って来た。その中に混じって、僧侶、男女の死体、それも手足が切り取られ、首もなくなったのが多数流れて来た。中にはこどもを抱いたり、手に手をつないだり、衣類が腰に巻きついたりした死骸などが、水の色もはっきりしないほど流れてきた。またこの水にどんな毒が入っていたのか、前記のようなものが流れ去った後に、ありとあらゆる魚が、まるで水に酔ったように、生きるでもなく、死ぬるでもない状態で、ぷかりぷかりを浮かびながら流れていった。」pp.34
高崎哲郎[治水と災害 寛保大水害と浅間山大噴火]『論集 江戸川』





 このような惨状を、遠く、200km近くも離れた江戸の川に引き起こした天明三年の噴火の規模の大きさが、窺い知れます。

 また、それだけではありません。江戸の村民たちは、このような光景を目の当たりにし、自らも生活の厳しさや飢饉や洪水の中で生きていながら、それでも「あの日」の光景を忘れず、十三回忌まで行い、そして今までもその記憶の基盤をずっと残してきました。
 例えば善養寺の供養碑は、昭和の時代になって一度行方不明になりますが、再度発見されて再び安置されたのです。そのまま、消えていってしまったかもしれなかったのに。

 これらの碑には、そのような「社会的な」、噴火の影響の大きさも刻み込まれているように思われます。地質的な噴火そのもの痕跡ではなく、そこに人々がいたから残った、人々を介して残されてきた痕跡、社会や「ヒト」の次元の痕跡もまた、大きく注目に値するものだと思われました。




参考文献

江戸川区1976『江戸川区史 第三巻』

高崎哲郎2006[治水と災害 寛保大水害と浅間山大噴火]
  「論集 江戸川」編集委員会2006『論集 江戸川』

2015年4月28日火曜日

---土曜日のストレス発散---


やはり、船にみえる






 出会い頭の一枚



急いでるフリ

こうた、飲み物を買う。

こうたろう、ボールを持つ。

やっぱり、仲良し。。。










痩せた頬がキリストっぽい

キリストに祈る


失敗作

やっぱり、仲良し。。。



アイドル風



顔・・・も、いい顔だよ。






歓喜の瞬間

喜び分かち合うふたり



新緑の前




銭湯、のち、





すしざんまい

2015年4月5日日曜日

千葉ローカル線…というよりほぼ成田旅行


日暮里から、常磐線で (最近、日暮里ばっかりだ)

松戸、柏、名だたるベッドタウンを超えて、

我孫子で乗り換え

成田線へ。


成田線になったとたん、景色はどんどん落ち着いていくし、車内もどんどんすいていく。

あと、安食、とか、下総松崎、とか、初見では読めなそうな駅名ばかり。




成田駅に到着。
この日はさむかった、景色も少し寒々しい

表参道に通じる、横道は、
かつては、にぎやかな飲み屋街であっただろうことを思わせる


表参道に出る

道路も整備されているし、街並みもきれい
裏通りとの差が大きい



うなぎ、食べたい…。




いよいよ、成田山へ到着。




お参り



成田山公園には桜もまだ咲いていた








舞い散れ

枝垂桜のアップ















亀と目があった





帰り道、参道の漬物屋さんで

「鉄砲漬け」を買った。 瓜、二本分も。

これで、毎日の食卓が楽しみになった!!!!

セブンイレブンもこの通りの色




成田駅から、成田空港へ

この一駅分が、ながいんだなぁ、ぐるりとまわって

でも、並走しながら横を抜きさってゆく、京成スカイライナー、かっこよかったなぁ。
なんだろう、あの仮面ライダー的かっこよさ。。。

成田空港は、中央とかウイングとか迷いかけたけど、
なれれば落ち着いて静かな、大人な雰囲気。

なにがすごいって、展望ラウンジの金網には、撮影用の小窓がある!



N A R I T A


羽田と違って、落ち着いた内装が、広々と続いている




私の性格上、
空港の内部をみて、ああきれいだったね、と言って帰るわけにもいかないので


これ、わくわくするんだよなぁ





さくらの山、公園、に

一年中、いい撮影スポットかもしれないけど、
偶然にもこの季節に来られてよかった、なんたってさくらの山だかんね。













うなりくんがいた

こどもと撮影中

こどもに手を振る




こちらは、さくらの丘

って、さくらばっかりやん

でも、この土地、成田空港のものっぽい
収容した土地を、いまのところ、公園にして「さくらの丘」と名付けてるわけだ

尾翼の梅、成田の桜





着陸のルートのほぼ真下から



一応、あげておく
フロントガラスを含むすべての窓を金網で囲った警戒車両が、
15分に一度くらいのペースで、周囲を走っている

春らしく

タイらしい色合い

で、やっと、ローカル線っぽい

芝山鉄道、といっても、一駅だけ



芝山千代田の駅では、運転手の窓からこんな景色


成田の表の顔と裏の顔を両方見たかったんだけど、
はたして、目的は達成されただろうか

帰り道は、また、えんえんと水田地帯と住宅地と郊外ベッドタウンの路線

スカイツリーをみた時、「ああ、帰ってきたな」と思ってしまった。