帝釈天と寅さんで有名な柴又の、南のはずれにある宝生院の墓地の入り口近く、案内板とともに、細くて高い供養碑が立っています。
「浅間山噴火川流溺死者供養碑」
右側面には「天明三年癸卯歳七月十八日」とあるので、大爆発の後、十日ほどで作られたのでしょうか。おそらく死体の回収がひと段落し、供養が済んだ段階で作られたものなのでしょう。
今でも非常にきれいにされていて、つい最近のお線香の跡もありました。
静かな江戸川
影向の松
さらに、江戸川沿いを南下し、京成線とJRの線路をくぐった先、「影向の松」が境内の中心に広く枝を広げた善養寺にも、天明三年の噴火によって流れ着いた死者たちへの供養碑があります。
「天明三年浅間山噴火横死者供養碑」
善養寺の西門の外にあり、住宅地のほうからお寺やってくる人々を見守るように立っています。今でも、新しいきれいな花が供えられていました。
碑文全文
前癸卯信州浅間山水火湧出流緇素洪河日往
転増爛月来更自黛白蠕孔裏蠢晋蝿上飛
欲尋昔日愛一悲一可愧今歳寛政七乙卯七月
十三回仏陀妙慧慈雲霑法雨無上菩提沌浄也
果たして、浅間山から遠く離れた地域に住む人々にこのような供養碑を建立させるに至らせた、天明三年七月の江戸川の状況とはどのようなものだったのでしょうか。
『江戸川区史 第三巻』によれば、
「又山津波のもたらした被害は流失した村七十余を数え、この為に死傷者は無数に及び、その死体が利根川及び江戸川に満ち溢れ、殊に小岩付近の中州にはうず高く積って通船に差支えた程であったといわれている。/そして後日に至りこの惨状をまのあたり見た地元の人たちが、施餓鬼を行って手厚く弔い、その洲を毘沙門洲と名付けた。」pp.968
死体が中州にひっかかるように流れ着いており、その洲に冥福を祈って名前を付けるほどにその死体の数は多かったのです。
また、その流れ着いた死体も当然、きれいなままではなかったようです。できるだけ当時の状況を想定できるように、孫引きになってしまいますが、高崎哲郎さんが引用した『後見草』(杉田玄白による記録)をそのまま引用してみます。
「権現堂川、中利根川に、家屋の壊れた棟、梁などの材木類、それに戸、障子、家具類、また生木の大木のずたずたに折れて、皮のむけたものなどが流れ下って来た。その中に混じって、僧侶、男女の死体、それも手足が切り取られ、首もなくなったのが多数流れて来た。中にはこどもを抱いたり、手に手をつないだり、衣類が腰に巻きついたりした死骸などが、水の色もはっきりしないほど流れてきた。またこの水にどんな毒が入っていたのか、前記のようなものが流れ去った後に、ありとあらゆる魚が、まるで水に酔ったように、生きるでもなく、死ぬるでもない状態で、ぷかりぷかりを浮かびながら流れていった。」pp.34
高崎哲郎[治水と災害 寛保大水害と浅間山大噴火]『論集 江戸川』
このような惨状を、遠く、200km近くも離れた江戸の川に引き起こした天明三年の噴火の規模の大きさが、窺い知れます。
また、それだけではありません。江戸の村民たちは、このような光景を目の当たりにし、自らも生活の厳しさや飢饉や洪水の中で生きていながら、それでも「あの日」の光景を忘れず、十三回忌まで行い、そして今までもその記憶の基盤をずっと残してきました。
例えば善養寺の供養碑は、昭和の時代になって一度行方不明になりますが、再度発見されて再び安置されたのです。そのまま、消えていってしまったかもしれなかったのに。
これらの碑には、そのような「社会的な」、噴火の影響の大きさも刻み込まれているように思われます。地質的な噴火そのもの痕跡ではなく、そこに人々がいたから残った、人々を介して残されてきた痕跡、社会や「ヒト」の次元の痕跡もまた、大きく注目に値するものだと思われました。
参考文献
江戸川区1976『江戸川区史 第三巻』
高崎哲郎2006[治水と災害 寛保大水害と浅間山大噴火]
「論集 江戸川」編集委員会2006『論集 江戸川』
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