横須賀に行こうと思ったのは、なぜだかははっきりわからない。
ただ、いろんなことがかさなっていくうちに、行ってみたい気持ちが強くなっていた。
ということで
早朝、京急久里浜に到着。
電車内は、土曜日ということもあり、部活に向かう学生や若者、一部スーツ姿などが目立った。
駅を出て、バスに乗車。
今回は、京急「三浦半島2DAYきっぷ」を品川から利用したため、京急バスも乗り降り自由なので、心置きなくバスにも乗れる。
バスで揺られ、陸上自衛隊の基地前を通過し海岸沿いに出る。「ペリー記念碑」で下車。
浦賀沖に現れたペリーが日本に上陸した久里浜。上陸しやすそうな砂浜が広がる。
工場の塔三つが、こちらを見下ろしている。東京湾フェリーが千葉へ向かう時を待っている。空は未だ金色を残していた。
ペリー上陸記念碑は、一人の外国人が上陸したにしては、大きく立派なものである。
この現地にとって、ペリーがここに来たことは、強いインパクトを与えた出来事であったことがうかがえる。
公園内には、記念館・ペリーと戸田伊豆守の銅像、
そして「太平の/ねむりを/さます/じょうきせん/たった四はいで/夜も/寝られ/ず」の碑。
目の前で起こった出来事が、日本全土を揺るがしていく震源地の記憶がここにあった。
大きな碑に
「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」の文字
記念館の入り口に建つペリー
太平のねむりをさますじょうきせん たった四はいで夜も寝られず
久里浜の眺め
海岸沿いにバスで来た道を戻り、そのまま開国橋を通過、直進して湾の北側、山の手に登ってゆく。海岸沿いには、工場や少年院などさまざま施設が並んでおり、道は海から隔てられている。
隧道を通過すると、
浦賀の海が見えてきた。右手は燈明崎。
車道は海に近づいて降りていく。
ふと右手をのぞくとレンガ造りのドッグらしきものが。もはや小さな川の河口のようであるが、実際には明治に造られたドッグで、いまはプレジャーボートの並ぶおしゃれな施設の奥地に、ひっそり捨て去られている。
このあたりは、逗子や葉山のようなリゾートになるための開発が進んでいるようである。
海岸沿いには、巨大な高層マンションが並び、低層の家と細い道が並ぶ山側との落差がある。
忘れ去られたドッグ
浦賀港は、細く小さな湾であるにも関わらず、周辺の地域は小さな静かな港町であるにもかかわらず、ペリーの出現、咸臨丸の出航、陸軍の桟橋建築に、戦後の引揚船の到着と、
歴史に直結する港である。
歴史の大きな主役たちと、地域のちいさな街が対照的。道端の小さなお弁当屋さんがまたキュート。
浦賀港の奥に向かって。
足元は、軍が建設したL字桟橋
この沖に黒船が現れたのか
小さな、朱塗りのボートが、ボタンを押すと対岸からやってきて、150円で運んでくれる。
二分間ほどの航路。
かわいらしい船がやってくる
浦賀の湾を渡る
古い家屋も混じる静かな住宅地を抜け、
プレジャーボート群の裏手を抜け、
分譲中の新興住宅地を抜け、鳶を見上げ、
わかめの干してある小さな港を抜け、
海沿いの土地を大きく利用したいくつもの高層棟を含む「浦賀かもめ団地」の裏を抜け。
そして、港にたたずんで火を囲む3人のおじさんを含め、ゆったりした暖かい時間が充満する港。
鴨居港を後にして、観音崎大橋へ。
橋の下の海の美しいこと。砂浜の白いこと。沖へ向かって、白からコバルトブルー、すきとおった濃紺、青々とした海面と陽光の照り返しへのgradation。
鴨居港
生活の場、そして、海への出入り口
観音崎大橋
橋と言っても、下は砂浜
自然博物館手前
観音崎の自然博物館の手前から山への道を進む。
ここらには縄文時代の墳墓が残されているとか。山を登っていくと、地層の紋様が美しい土の壁が幾度となく現れる。
戦没船員の碑。「安らかに ねむれ わが友よ 波 静かなれ とこしえに」
小さなレンガ造りの隧道。そこを抜けると、第三砲台の跡。
石造りの整地された、28サンチ榴弾砲の無くなった地面には大きな木がしっかりと根を張っている。
これほど大きな砲と同じ地点に立っていると、そこからは海は全く見えないことに気づく。
数人のチームワークで大きな大砲を操り、狙いを定める人と充填する人など役割が分化されていたのではないだろうかということが思われた。
階段のうえが砲台
28サンチ榴弾砲がのっていた
北門第一砲台。階段の上の砲台が二つならび、その間をトンネルがつないでいる。
トンネルの下には地下室があるようで、隙間があったので覗いてみたが、真っ暗で何も見えず。
真っ白い灯台が、青い海と空の前に立つ。
海の向こうに富津岬の工場地帯が見える。観音崎は、東京湾の入り口に突き出た部分の突端なので、横浜などよりも、房総半島から同じく東京湾に突き出た富津岬にとても近い。
白い灯台
ズームするとこんなかんじ
富津の工業地帯
左にみえるのは製鉄所の高炉か
灯台から、海岸沿いに降りて歩いていく。
再び山に登っていく。
東京海上交通センターという施設のすぐ横に、北門第二砲台の跡がある。
砲台が三つ並んでおり、それぞれに地下の弾薬庫がついている。弾薬庫に通じると思われる鉄扉もあった。
砲台の横から、地下の弾薬庫に通じていると思われる地下道を発見。覗いてみる…。
真っ暗で、壁が煉瓦でできていることだけが確認できる。少し恐いね。
この規模の砲台が三つ並ぶ
写真の左のほうに、地下室に通じると思われる鉄扉がある
ちなみに、鉄扉には南京錠がかかっていた
三軒家砲台跡に着く。
大きな、鉄扉があったと思われる石柱の間を抜けると、100メートルほどにわたって、複数の砲台と、それらをつなぐ地下道、地下庫とそこへの通路、さらには井戸の跡まである。
広くて、当時の空間の利用のしかたがそのままにわかるほどに、そして兵士の生活がなんとなく見えてくるような、砲台跡。
彼らの仕事場が此処に在ったことが、現実味をもって身に迫ってくる。
砲台間をつなぐ地下道
といっても、階段をおりてすぐのぼるだけ
しかしこれが必要な設備であったのだろう
砲撃を受けることを想定すれば
砲台
砲台の端にある地下庫の扉
ガラスと白が、背景を青に、美しい。
さらに、海まで出る。
ウッドウォーク完備。快適に海沿いを歩ける喜びと、砂浜を永遠に、しかし一瞬でコンクリートづめしてしまった上を歩いているアンビバレントな気持ちになる。
海岸線沿いの道路沿いを歩く。
乗合船店が並ぶ。白地に毛筆の「○○丸」の名がロードサイドに並ぶ。
日本書紀由来の、御所ヶ崎が海に突き出て、そこだけ山を残している。
その手前。
歩道橋。
「観音崎の歩道橋」
♪ユーミン『よそゆき顔で』
にでてくるのはここか。
電線が目の前に並ぶ、その向こう、小さな港と観音崎。
足元を、車が流れてゆく。ドアのへこんだ白いセリカは下をくぐってゆかなかったけれども。
観音崎の歩道橋
歩道橋の上にたつ
くぐっていくくるまをみおろす
一瞬、お互いに動きをとめて、それからリスは、傍の樹木に跳んでいってしまった。
バスを待つ。横須賀市街地へ。
降りたところは、国道16号沿いの、三春町二丁目。
いままで、鬱蒼と木々生い茂るなか、静かな海沿いを歩いていたために、
おなじみのチェーン店が道路わきを鬱蒼と茂るロードサイド文明のなかに突如と出てきた驚き、
そして、強烈な既視感。
もはや、日本中どこでも同じ景色なのかという衝撃があるが、それと同時に、この景色を故郷にしてきた世代の私には安心感もある。
そういえば、最北端の稚内の市街地でも同じような景色をみたなと思いだす
日本中、おんなじ
そこから一本海沿いの道路へ。
遅めの昼食は、横須賀魚市場の敷地内に建つ「魚がし食堂はま蔵」さん。
地元の、というより、大きな幹線道路沿いにたつ、若干ファミレス要素の混じった現代的な大衆食堂。食券式。
ファミリーやサラリーマン、一人のおじさんもいた。
中央分離帯アリの四車線の幹線道路。
路上の風景は、若干、南国の海沿いをイメージさせるが、
海側の広い敷地には、なぜこれほどまでにとおもわせるほど、同じような大型ショッピングセンターが延々、並ぶ。
ave、LIVIN、ノジマ、Home's、ヴィスポ…。
LIVINで、どこでも同じなのに、都心に住んでいると次第に懐かしくなってくる、あの大型ショッピングセンターの匂いと広さを味わってみた。(靴下を買った。)
その裏手のうみかぜ公園に立ち寄る。
猿島が目の前に見える。
投げ釣り、凧あげ、走り回る幼児。家族と日常の何気なく楽しい風景が並ぶ。
その一角、コンクリートづくりの巨大な建造物。これは、明治期に東京湾のど真ん中に建設された、人工島にあった官舎の一部。ここにあるのは一部で、実際にはこれを含みこむかなり大きな島を、水深40メートル以上の東京湾に造ったというのだから、その技術は明治期にしてはかなり驚きのものである。実際、アメリカなどからその技術を教えてほしいという依頼があったそう。しかし、この人工島も関東大震災で崩壊、ながく海に沈められていたが、航行の障害になるため引き上げて撤去したさい、その一部がここに展示された。
それにしても、明治時代の、軍隊への注力、技術の結集、野望は、かなり大きなものであったのだと驚くばかりである。
これがほんの一部
巨大な人工島を明治時代に作る技術があったことに驚く
横須賀新市街の日常
巨大な、そしておなじみの、ショッピングセンターがいくつも並ぶ
この日は、ここは東郷平八郎の写真だけとってスルー。
「みかさ」は工事中…。
地方都市らしい一面が垣間見える。大型幹線道路の内側の旧市街地は、区割りも小さく、小規模の昔ながらの百貨店が建ち、駅前のメインストリートのアーケード街に漂う哀愁と翳り。
路地好きにはたまらない細さ
中心市街地のメインストリート
すこしさびれた感じを残す面影
ヴェルニー公園。
アメリカ軍基地の一部のように巨大な姿で軍港見下ろすダイエーのショッピングセンター。
洋風の、山下公園に近い、ヴェルニー公園。公園の対岸には、イージス艦。
米軍の指令基地のように立派なダイエー
ヴェルニーは、横須賀製鉄所の増設を監督したフランス人。
小栗上野介は、ポーハタン号で、日米修好通商条約を締結し世界を一周して帰国、横須賀製鉄所などの建設を推進した。彼は、幕府側の人間であり、戊辰戦争後に斬首される。
小栗上野介の像の背後には、斬首された河原の石が寄贈されていた。実は、彼が斬首されたのは、私の育った街から山をこえてすぐの場所なので、ここまできて故郷の勇士に出会えたことは実にうれしく、安心することである。
彼は、日本史にはあまり出てこない。それを、敗けた側の人間だからと片づけるのは簡単である。しかし、彼のその歴史に担った役割をしっかり理解せねばならないと思った。
ヴェルニーと比べて、小さくて細くて丸い日本人・小栗上野介の肩
視線の先には米軍のイージス艦
汐入駅前には、昔の面影を残す商店が、忘れられたように一角に残っている
市街地へ戻る。今度は、「どぶ板通り」を通った。
(帰るまでにこの通りは何度も通ったおかげで、なじみができ居心地良くなってしまったので、最初の印象が薄い…)
横須賀中央駅前の中心市街地は、細い路地と、居酒屋やパブなどが並んでおり、人間の生活感を感じられる、こじんまりしたいい街である。
ぐるぐると街中を歩き続けた。
細い路地と、飲み屋街
飲み屋、パブが並ぶ駅前の路地
市街地の空き地はやっぱり駐車場利用
背後には、市街地の猥雑さから離れて見下ろす「綺麗な」高層マンション・建築中
しかし、さすがに歩き回ってばかりで時間を持て余したので、一度市街地を離れて、中央公園へ。
横須賀の街を見下ろす背後の山へと通じる急坂を登ってゆく。登り始めると、一気に静かになる。住宅地の真っただ中に入る。
山を登りきると、その頂上部に中央公園。かつての砲術の演習場をそのまま公園にしたという。
そこからは、横須賀の東部を見下ろせる。薄暗くなっていた。遠くには横浜・富津の工場の光、その手前に黒くなった猿島、そして港、大型ショッピングセンター、小さなビルの密集した市街、住宅地と大型マンションの層が手に取るように見える。
ここには、いくつもの生活たちが、わたしのいままで知らなかったこの場所で、無数に重なり合ってぶつかり合っていることを思い知らされる。
のんびり小一時間ほど、小雨がおちるなか、その景色を楽しんでいた。
山をおり始めた時には、大分暗くなった。暗いなか雨薫る、坂の住宅地は、妙に居心地がよかった。
富津と猿島
写真粗くなってしまった
坂の道
温かい家庭を内包する家々の間を、一人静かにおりてゆくのは、意外にも居心地良い
小さな踏切、小さい
駅前、夜がくる
内装は、アメリカのバーそのもの。奮発して、デラックスプレートを注文。
店内に、日本国旗をかけた潜水艦が入港している写真がかざってあって、じっと見いてしまった。
我々世代には、戦争は知らないし、断片的な情報の中で想像するしかない。それでも、この国が「敗けた」ことは確かなのだなと実感した。敗けたからこそ、ここにはこのような街ができて、このようなお店が出来て、アメリカ人の寡黙でテキトーでフレンドリーな店員がいるこのお店で、私は夕食をとることができる。
戦争はもうなくても、敗けたことの事実なら目の前にあるじゃないか、と。
店を出るころには、店内はアメリカ人らしき人たちで埋まり始めていた。
しかし、どこか居心地良かったのはなぜだろう。
海軍カレーデラックスプレート
横須賀名物の、海軍カレー・ネービーバーガー・チェリーチーズケーキを一度に!
店内、カウンターはもっとバーっぽい雰囲気
大音量のロック
そんな思いを抱えたまま、夜のヴェルニー公園へ。
雨に濡れた公園の美しいこと。背景に自衛隊・米軍基地の灯りを連ねた公園の灯りの美しいこと。
夜のどぶ板通り
夜の飲み屋街
そのなかでも、少し高級げなスナックの立ち並ぶ通り
この日はここまで。
0 件のコメント:
コメントを投稿