コンビニで見つけた。偶然。ほんと。
卵ボーロって、お菓子があるじゃないですか、俺はあれがね、好きじゃなかったんですよ
幼児の頃は食べてたんでしょうがね、
あの何とも言えねえ、赤ちゃん臭さ、
慣用句じゃなく、本当に生まれたばっかの赤ちゃんのような、
擦りむいた傷口から出てくる薄く黄色い血漿の匂いのような、
そういう生々しさのある甘い味
あとね、ミルクセーキ
あれも生々しく甘いじゃないですか、たぶん卵黄そのまんまなんでしょうね
そういう味がずっと好きじゃなかったんですよ
でも、この街を歩いているうちに、
偶然それらをみつけて、
ひさびさに味わってしまいました。
なんだか、あの辺りにぴったりの味わいなんですよね
谷中を歩いたあと、日暮里から南千住へ。
コンクリート造りの低層マンションが増え、日も傾いてきた。
南千住といったら、これ。
歩道橋を越えて。
ところで、
最近、『あしたのジョー』を一気読みしたばっかりだったんですよ。
心にずっしり来ましたね、ブローのように。
それで、泪橋に感慨深く。
こにあった橋の下にジムがあるという設定なんです。
おっちゃんのセリフ。
「この橋はな、人呼んでなみだ橋という。いわく…人生にやぶれ、生活に疲れ果てて、このドヤ街に流れてきた人間達が、涙で渡る悲しい橋だからよ。三年ほど前のわしもそうだった。おめえもその一人だったはずだ…だが、今度はわしとおまえとで、このなみだ橋を逆に渡り、あしたの栄光をめざして第一歩を踏み出したいと思う。わかるか、わしの言うてる意味が…?」
ドヤ街に入ってきた人たちにとってはそこが終着点かもしれないが、ジョーはそこから世界へ挑んでいく、そのストーリーに心打たれるのでしょうね。
「泪橋」の信号
信号の一角のお店。「パ」のずれ具合、そして、ふりがな…ふれてない、みえてない。
泪橋から、道を渡って、南側へ。
ドヤ街です。
意外と広いんですね。
渋谷とか表参道とかそういうおしゃれなスポットってテレビなんかでイメージが作られていくので、言ってみると、あれもう終わり?ってことがよくあるんですが、
このドヤ街は真逆でしたね。
こんなに広いのか、この一角も簡易ホテルが並んでるのか、と。
スポットライトは、現実以上の存在感をみせることもありますが、
陰は、現実よりも小さい印象が与えられていくんですね。
その非対称性を身に染みて感じました。
玉姫公園
ジョーが一人になりたいときによくここにきてました。
ただ、現状は、ブルーシートの家が並び、
多くの人の生活の場であるとともに、集会の場でもありました。
一人になれる雰囲気ではありませんでした。
たしかに、ホームレスやドヤ街で生活する人たちを助けなくては、という意見はあります。
しかし、その地域は、現実に広がりをもって、現実に身体をもって、現実に言葉を交わし合う人たちがいる場所です。
そこでの生活様式や文化、慣習、蓄積にも目を向けることもできるのではないか、と感じました。
商店街
あちこちで『あしたのジョーのふるさと』を推してるのにはびっくりしました。
ドヤ街の商店街のテレビに、
おしゃれで清潔なデパートでインタビューを受ける着飾った中年女性が映っていた。
同じ東京でも遠く遠く。
『「あした」…といっているわね しきりに…「すばらしいあした」はきょうという日をきれいごとだけ…おていさいだけととのえてすごしていては永久に やってこないわ
血にまみれ あせやどろにまみれ きずだらけになって…
しかも他人には変人あつかいをされる今日という日があってこそ…
あしたは…ほ…ほんとうのあしたは…!』